倦怠感について
疲労感・倦怠感は,我々が日常的に経験してい
る感覚であり,発熱,痛みとともに,身体のホメオス
タシス(恒常性)の乱れを知らせる三大アラーム機構
の 1 つである
文部科学省・科学技術振興調整費による疲労研究
班[生活者ニーズ対応研究「疲労および疲労感の分子・
神経メカニズムとその防御に関する研究」(平成
11- 16 年度,研究代表者:渡辺恭良)]では,これま
でに知られてきた断片的な疲労の分子・神経メカニズ
ムの研究結果を統合し,脳機能イメージングや遺伝子
解析などの新しい方法論も取り入れて「疲労」と「疲
労回復・予防」についての研究を深めてきた
マラソン等の激しい運動後の疲労感ということにつ
いて,血中アミノ酸の組成変化(トリプトファンの相
対的増加)による脳中のセロトニン生合成の増加を,
その原因候補として捉らえる説があった.この説
を理解するためには,アミノ酸の脳への輸送系につい
ての知識が必要である.即ち,輸送系のうち L シス
テムトランスポーターは,トリプトファンなどの芳香
族アミノ酸とロイシン・バリンなどの分枝鎖アミノ酸
に共通の輸送系であり,これらのアミノ酸はお互いの
血中有効濃度により競合的に脳に入る.トリプトファ
ンは,脂肪酸と同じく,その大部分が血中アルブミン
に結合した形で存在し,アルブミンから遊離された型
の濃度が輸送系に重要である.このことを頭に入れて
考えると,激しい運動後には,血中で遊離脂肪酸が増
え,これが遊離型のトリプトファンを増やす.一方で,
分枝鎖アミノ酸は,骨格筋に窒素供給源として取り込
まれるために,血中濃度が減少する.この双方の結果
により,トリプトファンの脳への移行量が上昇し,ト
リプトファン濃度に依存しているセロトニン生合成が
活性化される.セロトニンは,様々な作用を担ってい
るが,古くから睡眠関連物質として知られていたこと
から,このトリプトファン - セロトニン説が提唱され
た.実際に,分枝鎖アミノ酸や L システムトランス
ポーター阻害薬の前投与により,運動や手術後の疲労・
倦怠感は減少することが報告されている.慢性肝炎や
肝硬変極悪期の肝性脳症の際も,ロイシン・バリン等
の分枝鎖アミノ酸の輸液が臨床第 2 相試験まで行われ
たことがあり,このような血中アミノ酸組成ないしは
アミノ酸輸送・代謝は,末梢性の疲労・倦怠の脳伝播
メカニズムに関与している可能性が高い.
しかしながら,最近では,疲労のセ
ロトニン増加原因説に疑問が投げかけられている.そ
れは,我々の班研究の成果として,
(1)慢性疲労症候
群患者の約半数に SSRI(セロトニン選択的トランス
ポーター阻害薬)投与による疲労感改善効果が見られ
ること(倉恒ら),
(2)慢性疲労症候群患者のセロト
ニントランスポーター(5- HTT)遺伝子のプロモータ
ー領域の長さが長い変異が見られ,これは,5 - HTT
の発現上昇を意味すること(筑波大学・成田ら,後述),
(3)慢性疲労症候群患者に対する PET 検査により,
前頭部でのセロトニン生合成の低下が見られる可能性
が高いこと,
(4)擬似感染動物疲労モデルにおいては,
interferon -α mRNA の増加と一致した時間経過で大
脳皮質や内側視束前野の 5- HTT mRNA が上昇するこ
と,同時にマイクロダイアリシスで測定した前頭前野
の細胞外セロトニン濃度は低下すること(九州大学・
片渕ら),
(5)そのモデルで条件づけを行うことができ,
条件づけによる行動量の低下をセロトニン 1A 受容体
アゴニストが改善すること(九州大学・片渕ら),な
どから,セロトニンはむしろ疲労時には低下している
のではないか,という考えが成り立つからである.実
際,我々の研究でも,セロトニン枯渇動物の行動量は
低い.確かに,疲労のモデルは殆どがストレスモデル
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の延長でもあることから,実験データの時間経過を良
く精査する必要がある.つまり,セロトニンはストレ
スの急性期では上昇するが,その位相と疲労の位相と
を混同してしまうと,全く逆の方向の結果を得ること
になる.
そのような経緯で,現時点では,疲労のセロトニン
増加説は少し撤退し,トリプトファンそのものを問題
にする説,あるいは,トリプトファンからの他の代謝
物で神経毒性のあるキノリン酸(グルタミン酸
NMDA 受容体の拮抗薬)などにその原因を求めつつ
ある.今から 20 年以上前の実はセロトニン睡眠物質
説華やかなりし頃,セロトニンそのものは脳に入りに
くく,また,末梢循環に入れるとフラッシュ(のぼせ)
などの悪い効果もあるので,前駆体であるトリプトフ
ァンを睡眠剤として開発した時代があった.ところが,
副作用が出て,この目論見は退けられた.即ち,現在
の知識では,トリプトファンからセロトニン以外へと
代謝される系(インドール環解裂系,哺乳動物ではこ
の系がメジャーで,セロトニン生合成系より遙かに強
い)で作られたキノリン酸などの神経毒性により,グ
ルタミン酸神経を破壊することが判明した.つまり,
この毒性のある物質が脳内で増えることにより,疲労
感も増悪され,また,副作用があると考えられる.疲
労は,このように,アミノ酸がかなり重要な要素と考
えられるが,トリプトファン以外の芳香族アミノ酸や
分枝鎖アミノ酸についての統合的な正しい解釈に至る
にはもう少し良く精査する必要がある